八世紀頃の律令制下において、小櫃川流域は、下流域は上総国望陀(もうだ)郡、上流域は同国畔蒜(あびる)郡と区分されていました(しばらくして望陀郡に併合)。今の久留里はこの畔蒜郡のうち、甘木・小河と呼ばれていた土地にあたるとされます。この地がいつ頃から久留里と称されるようになったかは定かではありません。また久留里という地名の由来についても諸説紛々です。
口碑の類を探ると、まず古文書『久留里記』によれば、
平将門の三男が
浦田の妙見(今の久留里神社)を参詣し、築城のことを祈ると「浦田の峯に城郭を構え、名を久留里城と呼ぶべし」との夢告があったとの記述があります。また久留里市場の
福徳山正源寺に伝わるところでは、同寺開山の他阿心教上人が当地に留まり念仏を広めたことから、以後この地が「生き仏様が久しく留まられた里」ということで「久留里」と呼ばれるようになった、とのことです。
その他、川がクルクル蛇行している様子から、などの説があるそうです。
要するによくわかりません(^^;)
ちなみに
長崎県西彼杵郡時津町に久留里郷という住所名があるのですが、こちらについては時津町役場の方のお話では、
石がごろごろしている土地だったので「ごろ石」、
それが「ぐり石」に転じ、
さらに「くるり(久留里)」となった、
とのことでした。
おそまつ。