
戦国時代には里見氏が本拠地を置き、江戸時代には、土屋氏、黒田氏の城下町として栄えて来ました。
明治22年に久留里町が誕生し、昭和29年に松丘村、亀山村と合併し上総町となりました。
その後、君津町と合併し君津市となる37年前まで、久留里は周辺上総地域の行政の要でありました。
久留里に行政センターや警察、消防署、幼稚園、小・中・高校、病院など生活に必要性の高い公共的な施設が一通り揃っているのは、その証でしょう。
一方、交通の要としては、古くは小櫃川の水運で栄え、大正元年に久留里線が開通してからは、その役目を鉄道が取って代わりました。
近年、交通手段が変化し車社会となっても、鴨川線(国道410号)が通る町としてなんとかその地位を保ってはいられたのではないでしょうか。
しかし、今後410号バイパスが通ることとなると、交通の要としての位置づけも薄れることは必然です。
行政の要、交通の要という、2つを同時にを失う…
現在、「久留里」という地域が今までに経験したことのない岐路に立っっていることは間違いありません。
久留里地区(14大字)の人口はこの10年で4200人から3660人と13%も減少しています。65才未満の人口に限定すると10年で(620人)20%も減っているのです。それに従って、当然、久留里の経済規模も縮小してきています。
このまま人口が減り続け、産業が衰退して行けば、町としての「体」もなさなくなるのではないかと私たちは危惧しています。
久留里は「昔、城があった"町"」ではなく「昔、城があった"場所"」となってしまうのではないでしょうか。
私たち研究会のメンバーはこの先も、久留里という「まち」に住み、働き、久留里という「まち」を愛し続けていきたい。…そうしていきたいと願っています。
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