「久留里」地名由来

2006年12月15日

八世紀頃の律令制下において、小櫃川流域は、下流域は上総国望陀(もうだ)郡、上流域は同国畔蒜(あびる)郡と区分されていました(しばらくして望陀郡に併合)。今の久留里はこの畔蒜郡のうち、甘木・小河と呼ばれていた土地にあたるとされます。この地がいつ頃から久留里と称されるようになったかは定かではありません。また久留里という地名の由来についても諸説紛々です。

口碑の類を探ると、まず古文書『久留里記』によれば、平将門の三男が浦田の妙見(今の久留里神社)を参詣し、築城のことを祈ると「浦田の峯に城郭を構え、名を久留里城と呼ぶべし」との夢告があったとの記述があります。また久留里市場の福徳山正源寺に伝わるところでは、同寺開山の他阿心教上人が当地に留まり念仏を広めたことから、以後この地が「生き仏様が久しく留まられた里」ということで「久留里」と呼ばれるようになった、とのことです。

その他、川がクルクル蛇行している様子から、などの説があるそうです。

要するによくわかりません(^^;)

ちなみに長崎県西彼杵郡時津町に久留里郷という住所名があるのですが、こちらについては時津町役場の方のお話では、
石がごろごろしている土地だったので「ごろ石」、
それが「ぐり石」に転じ、
さらに「くるり(久留里)」となった、
とのことでした。

おそまつ
posted by にせもろこ Comment(2) | TrackBack(0) | ニュース&レポート
この記事へのコメント
にせもろこさん投稿ありがとうございます。
詳しいですね〜。これからもどんどんお願いします。歴史&IT担当って感じかな?(当然なんでもOKだけど)
Posted by りう at 2006年12月15日 23:38
文献、伝承での久留の初出は、崇神天皇の御代の初期に
河内国に現れ暴れ回った五彩の大蛇の巣窟を天皇自ら親しくご覧に成って(あり得ない。、、、多分、太田田根子命の探索話しと表裏一体かも?)
これは出雲大神の荒ぶり(出雲大神荒魂)なり。ヨロシク祀るべし。
と宣い、今の富田林市朝日ヶ丘に祀る。
しばらくして知世の晩年?に氷上(丹波国)の豪族の娘が神憑り、
日夜、何やら託せんらしき歌をうわ言のように歌っている。と報告を受けた天皇が皇太子(後の垂仁天皇)をして真偽を確かめさせるため氷上に下行。
文言を聞き取り、帰朝してその内容(ぐぐっとな?)を奏上するや、
先の出雲大神荒魂/大国主神に奉り、改めて
美具久留御魂大神と神号を奉りお祭りした云々。
大阪府富田林市の朝日ヶ丘に鎮座する美具久留御魂神社。
神社社殿と参道は二上山に向かってたてられ、その向こうには三輪山。
西には、伊勢久留麻神社。
(伝。敏達天皇の御代に伊勢の国庵芸郡久留真之庄伊勢の森(現、三重県鈴鹿市白子)に鎮座する
「久留真神社」(大己貴神(大国主神)。他)の分霊を奉迎しての創建。
現在の祭神は何故か、大日霊女貴命。イザナギ神宮の夏至の御来光のライン上。一帯の字は久留麻地区。)
後ろに連なる山(丘陵)一帯を「伊勢の森」と言って、
最高峰は栗村山。常隆寺。、、、行基上人が勅命を奉じて開基し、後に早良親王の埋葬場所、桓武天皇の勅願寺とも成った。
(藤原宮の西の結界/平安京の鬼門裏。ちなみに、真東は伊勢の二見浦興玉神社/大江寺(行基上人の開基。藤原宮の東の結界))
この西の山懐には古代最大級と言われる鉄器工房遺跡、五斗・垣内(ゴッサ・カイト)遺跡があり、傍らには黒川が流れる。

要するに、クル、クリ、クロ、クラ、クレなどは、鉄器、(砂鉄)、タタラ製鉄に関連性のある名称、地名と考えられています。



Posted by たぬき at 2017年11月08日 19:35
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